■いったい何番なの?
 建制順序とは、一般的な使われ方はさておき、熊谷うちわ祭では、その年の祭を統括する年番(全十二ヶ町の内、八ヶ町で持ち回りされる。)が回ってくる順番を現す番号です。建制順序一番の第壱本町区を起点として、町のある場所が時計回り(第壱本町区がおおよそ6時の位置)で、第壱本町区→第貳本町区→筑波区→銀座区→彌生町区→荒川区→鎌倉区→仲町区の順に年番が回っていきます。また、山車・屋台の運行は、鳶職の方々が行っているのですが、熊谷鳶組合には、十四番組までの組織があるようです。今現在、全部ではないものの、殆どの組が山車・屋台の運行に携わっていることになります。さらに、九ヶ町が参加する熊谷祇園会でも祇園会番があり、祇園会内部の年番もあるようです。
 この様に、序列を示すものか、ただ単に、便宜的に付けられたものかは管理人には知る由もありませんが、まあ、色々な番号があって、ややこしいことこの上ない・・・。と言う訳で、それぞれの番号を一覧にまとめて見ました。まあ、見物人サイドには、どうでもいい話かもしれませんが、祭見物の参考になればと思い作成してみました。
 ちなみに、年番が回って来ない四町も独自に四ヶ町行事を行っており、その年を統括する当番町が設けられています。
町区 建制順序 鳶職組番 熊谷祇園会番 祇園会年番 四ヶ町当番
第壱本町区 一番 一番組 一番
第貳本町区 二番 二番組 二番
筑波区 三番 三番組
銀座区 四番 六番組 三番
彌生町区 五番 七番組 四番
荒川区 六番 八番組 五番
鎌倉区 七番 四番組 六番
仲町区 八番 五番組
伊勢町区 八番組 八番
櫻町区 九番組 九番
本石区 十一番組 七番
石原区 十一番組
※:祇園会の年番は、基本的に、建制順序に準じますが、年番町を担当する筑波区・仲町区が祇園会に
  参加していないため、筑波区が年番の時は、伊勢町区・櫻町区が、仲町区が年番の時には、本石区が
  担当するそうです。
  なお、祇園会年番と四ヶ町当番は、特に番号がある訳ではないようです。
  なので、祇園会年番は、第壱本町区を起点として、回ってくる順番に番号をふったものであり、四ヶ町
  当番も、四ヶ町行事を発案した、伊勢町区を起点に回ってくる順番に番号をふったものです。
  あくまでも、管理人が便宜的に付けた番号です。序列とかを示すものではありません。

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■うちわ祭出身の山車・屋台
 熊谷うちわ祭には、おおよそ300年程の歴史があり、各地区で別々に行われていた祭礼が、一斉に行われるようになったのが、寛延3年(1750年)とのことです。ですので、うちわ祭の原型とも言える合同祭礼の形式ができてから、260年程が経過していることになり、当時は、神輿中心の祭礼だったそうです。時は流れて、明治になり、現第貳本町区の山車が江戸から購入され(明治24年)、その後、明治期に第壱本町区・筑波区・鎌倉区・仲町区が山車・屋台を制作、または、他から購入し、旧5ヶ町が成立。現在の山車・屋台祭の形式になったそうです。大正期から戦後にかけ、彌生町区・銀座区・荒川区が加わり、現在の8ヶ町による建制順序が成立しました。その後、石原八坂神社の祭礼で曳き廻されていた本石区・石原区も加わり、さらに、伊勢町区・櫻町区が加わり、現在の12ヶ町が参加する祭礼となった訳です。
 さて、現在(2014年)、そんな経緯で12台の山車・屋台が参加している訳ですが、管理人が子供の頃を思い出すと・・・。第壱本町区の神武天皇は、今とは、違う人形であり、筑波区は、制作されてから何年もたっておらず、銀座区・荒川区は屋台。仲町区は、上鉾がなく、いきなり人形が上がる形式、伊勢町区は、櫻町区→吹上上組と渡って行った小型屋台での参加でした。と言う訳で当時、うちわ祭に参加する山車・屋台は、11台でした(櫻町区は、伊勢町区から小型屋台を譲渡されてから参加)。
 このように、管理人が見物してきた範囲でも、各町区の山車・屋台の改造・新造等が次々と行われ、当時とは、大分、陣立が変わってきています。
 熊谷は、新しいもの好きな?土地柄からか、他の祭礼と比べると新しい山車・屋台が多いようで、今現在、曳き廻される山車・屋台の先代・先々代とかがあった訳です。最も、廃棄されたりなんだりと、現存しないものが多いのですが、中には、他の地区に譲渡されたりして現存しているケースもあります。
 と言う訳で、まずは、各町区の山車・屋台の変遷をまとめました。
町区 代目 山車人形 制作年・購入年 変遷 他
第壱本町区 初代 神武天皇 明治31年 初めて、地元熊谷で制作された山車。現在でも使用されている。
制作当時から、運転手付き可動式三輪だったかは不明だが、昇降装置がおだまきから現代的な方式(ウインチ方式?)に変更されるなどの、各種改造が行われたと思われる。
平成になってから?神武天皇の人形が更改された?
近年では、年番の平成19年に塗り直し等の改修を実施。
平成24年に、保存されていた部材を使用して、昇降装置がおだまきに戻された。
第貳本町区 初代 手力男之命 制作:天保年間?
購入:明治24年?
天保年間に江戸で制作された山車。明治24年に中家堂初代店主が購入したと言われ、現在でも使用されている。神田祭山車番付の二十五番新石町に「戸隠明神(手力男之命の別名)」があり、現在、管理人の知る範囲では、手力男之命の山車人形は見あたらず、山車人形自体は、新石町のものと考えるのが妥当だと思われる。山車自体は、三輪化(三輪化当時から運転手付き構造かどうかは?)、足場の敷設等の改造が行われたと考えられる。また、唐破風屋根の敷設や、囃子台の嵩上げ等の改造が行われた可能性もある?
平成29年、レプリカの山車人形を制作。
筑波区 初代 明治35年 鴻巣より購入。現存せず。
※:参考までに、鴻巣出身の山車は、渋川市に現存します。
二代目① 大正5年 新規制作された山車。現存せず。なお、彫刻の一部(野本民之助作)が、三代目山車修復時(平成21年)に流用された。
二代目② 大正13年 新規制作?された屋台。銀座区が独立した時に譲渡され、以後、銀座区の屋台とし使用される。
その後の経緯は、銀座区参照。
三代目 日本武尊 昭和36年 二代目山車の老朽化?に伴い、新規制作された山車。近年では、年番の平成21年に塗り直し等の改修を実施。その際、一部現存していた二代目山車の彫刻を流用。
平成29年、幕類を一新。
銀座区 初代 大正13年 二代目が制作(平成6年)されるまで使用。その後、佐谷田地区へ譲渡。
その後、さらなる老朽化のため?佐谷田地区から籠原区へ。
籠原区へ譲渡後は、台車部分と一部彫刻類を流用して、現在使用されている屋台を制作。
※:籠原区の現屋台は、2010年から使用されているようなので、佐谷田地区から譲渡されたのは、2009年~2010年の間のようです。
二代目 熊谷次郎直実 平成6年 熊谷のヒーローと言える「熊谷次郎直実」の人形を載せた山車(直実号)を新規制作。現在でも、そのまま使用される。熊谷では、唯一、裳階(もこし)を付けた山車。
彌生町区 初代 大正13年 新規制作された屋台。うちわ祭で使用される屋台では、最も古いものであり、現在でも使用されている。
近年では、平成24年に塗り直し等の改修を実施。
制作当時から、運転手付きの熊谷型三輪だったかは不明。
荒川区 初代 昭和22年 同地区内にあった「大室木工所」で新規制作された屋台。翌年(昭和23年)に荒川区に譲渡される。
山車新造(平成24年)後、「埼玉自動車学校」に売却され、同校敷地内の屋台庫に現存。
※:平成25年、平成26年の「さくらマラソン」では、埼玉自動車学校の校舎前がコースだったこともあり、屋台がコース前に曳き出され熊谷祇園会によるお囃子が行われました。
二代目 大國主命 平成24年 石川県の浅野太鼓楽器店で新規制作された山車。
山車人形(大國主命)、幕類は、地元熊谷の長野屋作。三番鉦まで納まる、大きな(長い)唐破風屋根が特徴。
鎌倉区 初代 素盞鳴尊 明治27年
(制作か購入?)
明治年代に新規制作か、購入された山車。明治42年に越生町黒岩町に譲渡。この山車は、現在でも越生町で曳行されている。飾り金具なども、殆ど更新されていないため、ほぼ、当時の状態で曳き廻されていると思われる。現地では、前輪の小さな三輪として使用されているが、前方に梶棒が付くタイプであり、現在の運転手が乗るタイプとは異なる。なので、明治期には、熊谷でもこのような形式の三輪だったかもしれない?
二代目 大正4年 御大典記念として新規制作された屋台(八千代号)。昭和20年の熊谷空襲により焼失。
三代目 昭和29年 二代目と同じ名前の八千代号として新規制作された屋台。近年では、年番の平成25年に塗り直し等の改修を実施。
仲町区 初代 明治39年 新規制作された屋台(花屋台だった?)。戦前、妻沼地区に譲渡されるが現存せず。
二代目 素盞鳴尊 昭和30年 新規制作された山車。制作当初は、二層目の鉾がなく、直接人形が出る形式だったが、昭和56年に二層目の鉾を加える。年番の平成26年に塗り直し等の改修を実施。平成29年、素戔嗚尊の山車人形を新規製作(平成28年までは、レンタルの人形を使用)。
伊勢町区 初代 制作年代不明。小型の屋台で、二代目が制作されるまで使用され、その後、櫻町区に譲渡される。
伊勢町区のお囃子会は、戦前(昭和10年代?)から活動されていたようなので、戦前制作されたものかもしれず、独自に祭礼を行っていた可能性もある?
中村写真館さんのホームページには、旧荒川区の屋台と並んで、「荒川区」の高張提燈を掲げた写真が掲載されており、元々、荒川区所有だったようにも思えるが、「荒川区」屋台の制作記念か譲渡記念に「荒川区」の高張提燈を掲げた可能性もあり真相は不明。その後の経緯は、櫻町区を参照。
二代目 昭和54年 新規制作された屋台。他の熊谷型屋台と違い、4本柱で、やや小型。現在でも、そのまま使用されている。
唯一、見返り幕を使用せず、屋台の後ろ側に額縁絵の龍を使用している。
三代目の制作により、彫刻等を残し、解体。
三代目 弁財天 平成29年 先代の屋台が4本柱のため、耐久性に問題があり、山車を新造。但し、上鉾・人形はなく、鉾の膜類も仮幕で運行。平成30年に上鉾・人形(弁財天)が追加される。今後、彫金・彫刻類が追加される見込み。
櫻町区 初代 昭和54年 伊勢町区の屋台新造に伴い、小型の旧屋台を譲渡される。当時は、「箱桜」(桜は、櫻だったかも?)の高張提燈を掲げていたので、櫻町と箱田の合同だったと思われるが、経緯は管理人にはわからない。二代目屋台を新造後に、吹上上組(鴻巣市吹上地区 旧吹上町)に譲渡され、現存。現在でも、運転手付き可動式三輪として曳行されているようだ。
二代目 平成6年 新規制作された屋台。制作当初は、見返り幕はなかったが、現在では、「大樹の櫻」の見返り幕がついている。
本石区 初代 大正年間? 鬼石本町へ譲渡。現在でも鬼石で曳行されている。現在でも、前輪が小型の3輪だが、現在では、前方に伸びるリアカー式?の梶棒が使用されている。なお、昭和30年代なかばまで運転台があったそうだ。
二代目 昭和12年 新規制作された屋台。熊谷では、最大・最重量の屋台。唐獅子牡丹子落とし図の見返り幕は、わりと制作が新しく、以前は、見返り幕がなかったようだ。
石原区 初代 大正年間? 鬼石三杉町へ譲渡。現在でも鬼石で曳行されている。但し、失火?で一部焼失があったらしく、大幅な改造が加えられたらしい。なお、腰幕で隠れているので見づらいが、現在では、可動式の四輪として曳行されている。
二代目 昭和12年 新規制作された屋台。熊谷では、唯一の四方破風屋根を持ち、最も彫刻の多い屋台。制作当初の写真(リンクさせていただいている「石原区公式サイト」)を見ると、既に、運転手付き可動式三輪になっている。
このことから、運転手付き可動式三輪は戦前には成立していたことは、確かなようだ。
※:記述内容は、各種うちわ祭関係の文献や、うちわ祭関係者へのヒアリング。現地調査等々に基づいています。誤りがある可能性
  もありますのでご了承ください。特に、怪しい部分には、?マークをつけさせていただきました。なお、関係者へのヒアリングや
  現地調査で判明する事柄もありそうですので、随時、追記していくつもりでいます。

 続いて、現存する、うちわ祭出身の山車・屋台を知っている限り写真入りで紹介して行こうと思います。上記の表の通り、他の地区で曳行(または、保存)されている山車・屋台は、
 ・熊谷市 籠原町(旧銀座区→旧佐谷田地区。但し、部材を流用して新造。)
 ・熊谷市 埼玉自動車学校所有(旧荒川区)
 ・越生町 黒岩町(旧鎌倉区)
 ・鴻巣市吹上地区(旧吹上町) 上組(旧伊勢町区→旧櫻町区)
 ・群馬県藤岡市鬼石地区(旧鬼石町) 本町(旧本石区)
 ・群馬県藤岡市鬼石地区(旧鬼石町) 三杉町(旧石原区)
の6台になりますが、旧江南町板井に謎の屋台があり、紹介するのは7台となります。

写真提供(見栄子の熊谷らいふ♪ 見栄子さん)
 佐谷田地区→籠原区へと渡って行った旧銀座区の屋台。老朽化?のためか、台車部分のみ流用、上屋部分は新造されたようです。管理人による現地調査ができていないため、写真を提供していただきました。
 写真から判断すると、後側の鬼板・懸魚、脇障子・勾欄・欄間彫刻等が旧屋台より流用されているように見えます。
なお、写真は、2012年に撮影されたもので、2013年の写真を見ると、台輪部分に模様が付けられたようであり、今後も改造が続けられていくのかもしれません。
左側の写真は、屋台全景→屋台後面の順に写真が切り替わります。
※:2013年の写真は、見栄子さんの以下の記事より確認できます。見栄子の熊谷らいふ♪籠原夏祭り2013
 唐破風の金具磨き(交換?)が行われ、町名幕等の幕類も新調。高覧下にも、菱形の模様が刻まれるなど、年々進化している籠原町の屋台。全体的に色合いも変わっているようだ。
※:2015年撮影。
 まだまだ記憶に新しい、荒川区の旧屋台。平成24年の山車新造により、一時引退?同地区内にある、埼玉自動車学校に売却され、同自動車学校内の屋台庫に保存されています。
 写真は、平成25年のさくらマラソンの一コマ。埼玉自動車学校前の道がマラソンコースだったので、屋台庫から曳き出され、熊谷祇園会による「お囃子応援」が行われました。平成26年にも曳き出されたため、どうやら恒例になりそうです。
※:平成27年は、曳き出されていません。
 越生まつりで現在も曳き廻される旧鎌倉区の山車(現在、越生町の黒岩町が所有)。山車本体の改造等は見た目殆ど行われておらず、飾り金具等も鎌倉区所有時当時と考えられるものが、そのまま使用されています。今でも、小型の前輪を使用した三輪ですが、熊谷のように運転手はおらず、前方に伸びた梶棒で操作していました。譲渡時からほぼ、改造等が行われていないらしいことから、明治時代は、熊谷でも運転手は居なかったとも考えられますが、真相は定かではありません。
 なお、左側の写真は、山車全景→前輪中心の土台部分→山車人形部分の順に切り替わります。
※:現黒岩町の山車については、なぜ鎌倉区の山車は売却されたのか?でも取り上げています。
 伊勢町区、櫻町区の屋台新造に伴い、櫻町区→吹上上組(鴻巣市吹上地区 旧吹上町)と渡って行った旧伊勢町区の屋台。写真の通り、現在でも運転手付き可動式三輪で曳行されているようです。また、舞台部分を広げる改造が行われたようにも見えます。
 なお、この話題とはまったく無関係ですが、写真を見るかぎり吹上地区でも三太鼓(但し、大きな鉦は見あたらない)が使用されているようです。どうやら、吹上辺りがさんてこ囃子系と神田囃子系の分界点なのかもしれません。
 ところで、狭っ苦しい感じで、前輪を操作する人が乗っているところが、何とも良い感じです。

写真提供(関東山車コレクション ゐちさん)
 本石区(当時、石原一丁目)の旧屋台で、現在、鬼石町本町区で曳行されています。詳細は不明ですが、おそらく、大正年間に制作?されたようです。鬼石の飾りつけは、熊谷とは大分違いますが、見た目通り、熊谷に持ってきてもまったく違和感がない立派な屋台です。一覧でも書いた通り、前輪が小さめな三輪構造ですが、運転手は居ません。前方に伸びた、大きな梶棒?を使用して方向転換されます。
ちなみに、現地(鬼石)では、写真の通り、左右に大胴が付き、さらに、舞台後方にも径の大きい大胴が設置されていました。
左側の写真は、山車前面→山車後面→鬼板・懸魚(前)→鬼板・懸魚(後)→前輪部分の順に切り替わります。
※:昭和30年代なかばまでは、運転台が付いていたそうです。
 これまた、鬼石三杉町に譲渡された旧石原区(当時、石原三丁目)の屋台です。大きめで立派なのは、本町区(旧本石区 石原一丁目)と同様ですが、ご覧の通り、鬼板・懸魚は彩色される等、熊谷に現存している屋台とは、大分、趣が違います。一覧表にも記述しましたが、失火?により、一部焼失があったらしく、譲渡当時から大幅に改造されている可能性がありそうです。なお、腰幕が地面すれすれまで達しているため、わかりづらいのですが、可動式の四輪に改造?されていると思われます。
右側の写真は、山車前面→山車後面→鬼板・懸魚(前)→鬼板・懸魚(後)の順に切り替わります。

写真提供(見栄子の熊谷らいふ♪ 見栄子さん)
 最後に、江南(旧江南町)板井に現存する、謎の屋台です。
現地では、大正期に鎌倉区から購入と伝えられているそうですが、鎌倉区側には口伝・資料共に残っていないようです。造りが簡素な事もあり、鎌倉区の初代山車が売却(明治27年)されてから、二代目屋台が御大典記念として制作(大正4年)までの”つなぎ”として使用されたものと考えられているとの話もあります。
 写真を見た限り、造りは簡素ながら前輪部分等に熊谷型屋台の特徴が見られますが、鬼板・懸魚等は、彫刻ではなく絵。唐破風部分が黒く塗られている等、鎌倉区から売却されたものと考えると、現地で改造した部分も多々あるように思われました。
 なお、運行中の写真を見ると、しっかり運転手が写っているため、間違いなく熊谷型の運転手付き可動式三輪です。
左側の写真は、山車前面→山車後面の順に写真が切り替わります。
※:この写真は、現地のイベント「こうなん祭り」で撮影されたものです。
※:本文中にも記述していますが、本記事の作成にあたり、以下の方々に写真を提供していただきました。
  ご協力いただき、まことにありがとうございました。
  ・見栄子の熊谷らいふ♪ 見栄子さん
  ・関東山車コレクション ゐちさん

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