■参加町区と実際の住所
 熊谷うちわ祭では、山車・屋台を参加町区名で呼びます。たとえば、「筑波の山車」、「仲町の山車」、「石原の屋台」、「伊勢町の屋台」等々です。まあ、実際には、町区名のみで呼ぶ事も多いようです。 さて、町区名は基本的に住所のはずですが、いくつかの町区は、実際の住所と違う呼び名を使用しているようです。おそらく、昔は、町区名と住所はイコールだったと思いますが、年月の流れにより、当時の住所と変わったため、このような差異が生じたものと思われます。実際には、こんな感じです。
 ・第壱本町区(通称:本壱弐) ≒ 本町一丁目
 ・第貳本町区(通称:本三四) ≒ 本町二丁目

 ・筑波区 = 筑波
 ・銀座区 = 銀座
 ・彌生町区 ≠ 弥生
 ・荒川区 ≠ 該当する住所なし
 ・鎌倉区 ≠ 鎌倉町

 ・仲町区 = 仲町
 ・伊勢町区 = 伊勢町
 ・櫻町区 = 桜町(字体が違うだけなので同じとした。)
 ・本石区 = 本石
 ・石原区 = 石原
 ※:左が町区名、右が住所。
 
 両本町区は、正式な呼び名では一致しますが、高張提燈に書かれた通称名だと異なります(私などは、今でも通称で呼んでしまいます)。どうやら、以前、本町は、一丁目~四丁目に別れていたようですが、現在、旧一,二丁目が一丁目に、旧三,四丁目が二丁目に統合されたため、高張提燈に名残が残っているようです。
 次に、彌生町区と鎌倉区ですが、両町区ともに、”町”を付けて呼ぶのが一般的なようです(確証なし)。ある時点で、”町”が付いたり、なくなったりしたのでしょうか?詳細は、わかりませんが、私には、両方とも”町”を付けた方がしっくりきます。
 さて、荒川区ですが、熊谷市には、”荒川”と言う住所はありません。但し、荒川公園・荒川中学校・荒川神社等があるためか、あまり違和感はありません。古老(私の親父)の話によると、線路の南側は、荒川区○○町と呼ばれていたようですので、現在の熊谷駅~上熊谷駅やや石原駅寄り南側の荒川区のテリトリー(正確な範囲は私には、わかりません。)と一致するようです。

 参加町区と実際の住所の矛盾は、こんなところですが、熊谷の町中には、祭に参加していない町も存在します。住所でいうと、”星川”とか”末広”といったところです。自分の町名としては、参加していませんが、”星川”は、その名の通り、星川周辺ですので、本町(第壱、第貳)、鎌倉、彌生町といった感じで複数の町区と隣接します。多分、番地によりどこかの町区のテリトリーとなっていると思われます。戦国時代にたとえれば、近隣有力大名(近隣のうちわ祭参加町区)の草刈り場といったところでしょうか?次に、”末広”(熊谷女子高校から熊谷東小学校あたりの周辺です。)ですが、実は、管理人の私が幼少のころに住んでいた地域です。当然、自前の山車・屋台はなく、近場の筑波・第貳本町あたりを曳きに行きました。古老(先程も書いたが私の親父)によると、祭の時には寄付をしていたらしく、また、祭事係が回って来る前に、引っ越したということです。はっきりはしませんが、どうやら、筑波区のテリトリーだったようです。引っ越していなければ、私もお囃子会に入れたのかもしれません??なお、聞いた所によると、”末広”の一部地域は銀座区のテリトリーでもあるそうです。

 さて、ついでに、もう少し小ネタを・・・。

 石原区のことです。秩父鉄道には、石原駅がありますが、実際の町名”いしはら”に対して駅名は、”いしわら”となっています。結構、ありがちな話なのかもしれませんが、私がパッと思いつくのは、東武伊勢崎線の鷲宮駅(わしのみやえき)です。駅名は、”わしのみや”ですが、実際の住所は、”わしみや”です。但し、近年有名になった鷲宮神社は、”わしのみやじんじゃ”らしいです。ちなみに、宇都宮線も東鷲宮駅(ひがしわしのみや)となっています。

 次は、櫻町区です。古くからのうちわ祭通には御存じの通り、櫻町区は、昭和54年に伊勢町区から譲り受けた小型屋台(現在、鴻巣市吹上地区に現存)を使用して、うちわ祭に参加するようになりました。ですが、なぜか当時は”箱桜”として参加したのです(さくらは、桜か櫻か記憶にない)。なお、”箱桜”とは、高張提燈に書かれていただけなので、詳細は不明ですが、どうやら、桜町と箱田の両地区だったと思われます。今でも、箱田地区の一部は櫻町として参加していると思われますが、参加町名が変わった事には、何らかの理由があったのでしょうね。なお、いづみ建設(地図上は、イヅミマンションと表示されます。)あたりで”箱桜”を始めて見た時には結構衝撃でした。
※:吹上地区の地図は、吹上駅です。

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■お祭り広場の仕掛け
 出没!アド街ック天国でも紹介されたので、御存じの方も多いかと思いますが・・・。普段は、ただの市役所通りと星川通りの交差点であるお祭り広場には、まさにお祭専用とも言える仕掛けが施されています。
 以下に、写真を交えてお祭り広場の仕掛けを紹介します。

・折り畳み可能な信号機
 お祭り広場の信号機は、山車・屋台運行の邪魔にならないよう、折り畳み可能となっており、上方へ持ち上げることができます。
なお、手持ちの写真を確認したところ、祭最終日の22日のみ折り畳まれていたようです。
 左の写真は、祭前日で交通規制もされていないので、当然のごとく信号機は通常通り。右は、22日(最終日)に撮った写真。22日夜は、お祭り広場に全12台の山車・屋台が揃うため、運行の邪魔にならないように信号機が上方に持ち上げられる(折り畳まれる)。なお、このような仕掛けは、川越・久喜あたりでも採用されています。

・フラットになる中央分離帯
 お祭り広場周辺の市役所通りは、中央分離帯を裏返す事によりフラットにすることができます。もちろん、山車・屋台の運行をスムーズに行うためですが、多くの人でごった返すお祭り広場の安全も考慮されて、このような仕掛けが考え出されたのではないでしょうか?
 なお、スイッチ一つの自動で裏返る訳ではなく、重機を使用するようです。
 左の写真は、普通の日に撮影した物。中央分離帯は、当然出っ張っています。右は、祭前日(19日)の写真。既に、中央分離帯が裏返りフラットになっています。どうやら、中央分離帯を裏返す作業が行われるのは、7月18日か?

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■内山良雲って誰?
 うちわ祭好きで、このサイトを見ているような方には周知の事実ですが、熊谷に存在する一部の屋台彫刻は、内山良雲と言う人が手がけているようです。公式ホームページやうちわ祭関連の文献によると、彌生町区・本石区の彫刻は、内山良雲と書かれています。私も紹介記事が思いつかなかったため、”彫刻は、内山良雲”と記述させていただきました。
 では、内山良雲っていったい誰なの?ってことが疑問に思えてきました。名前を聞く限りでは、いかにも名人そうな感じがプンプン漂ってきます。しかし、まったく知識がなく、調べる方法もわからないため、取り敢えずネット検索して見ることにしました。
 ネット検索の結果として引っかかって来るのは、殆どうちわ祭関連ばっかりでしたが、うちわ祭以外にもいくつかの記事が見あたり、以下の事がわかりました。

 内山良雲とは、行田出身の彫師で、主に大正から昭和初期に活躍したようです(かなりの長命だったようです)。
 私の調べた(ネット検索しただけだが・・・)範囲では、熊谷の屋台以外に以下の彫刻を手掛けているようです。
 ・東京都台東区谷中妙法寺
 ・埼玉県坂戸市赤尾諏訪神社
 ・千葉県鴨川市天津日澄寺
 ・埼玉県秩父市川瀬祭番場町屋台(※:地図は、屋台庫付近です。)

 なお、深谷・行田あたりにも、熊谷と似た雰囲気の屋台があり、制作年代的にも符合する物もありますので、もしかしたら、内山良雲が手掛けた彫刻があるのかもしれません。
 ※:今後も、内山良雲については、調査をするつもりです(まあ、どうやって調べればいいかわからない状態だが・・・)。
  何かわかれば、この場に公開するつもりです。
 上の写真は、秩父川瀬祭の番場町の屋台です。さすがに、秩父夜祭と比較すると小ぶりですが、朱塗りで彫刻も多用された素晴らしい屋台です。調べた限りでは、すべての彫刻が内山良雲ではなく、何人かの合作のようです。なお、川瀬祭には、他にも彫刻が多用された屋台が数台存在します。詳細は、「お祭見聞録」の秩父川瀬祭をご参照下さい。

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■うちわ祭とホルモン焼き
 これまた、出没!アド街ック天国で紹介された話ですが、熊谷の市街地には、ホルモン焼き屋が多いそうです。どこの町にも、あんな感じでホルモン焼き屋はあるような物で、熊谷に特別多いとは思っていませんでしたが、言われてみれば、ホルモン焼き屋って沢山あるような物ではないようです。たとえば、大宮の繁華街でも私の知る限り1軒しかありません。
 さて、何でこんなことを書いているかといえば・・・。 2008年のうちわ祭最終日(22日)のことです。当日は、うちわ祭にふさわしい暑い日だったと記憶しています。夜の部もそろそろ佳境に入ろうかという時間帯(当然、まだそうとう暑い)、ある店の前で驚きの光景が・・・。
 簡単に言うと、ホルモン焼き屋の「水よし本店」が超満員御礼状態だっただけなのですが、くそ暑い中(なにせ熊谷です)、開けっ放し、かつ、煙モーモー状態で、炭火の七輪を囲む人がこれほど居るとは。呆れるやら、驚くやらで写真まで撮ってしまった次第です。なお、うちわ祭ならではの光景なのか、夏場でも結構お客がいるのかは定かではありません。冬場に店の前を通りかかった時は、当然、開けっ放しではなかったため、中の様子は確認できませんでした。ちなみに、私は、店の前で販売していた生ビールをあおっただけで、退散しました。うーん。恐るべし。
 2008年に撮影した水よし本店の写真。当日は、店頭でも生ビールが販売されていた。私は、相当前に一回だけ行った記憶があり、たしか当時はチューハイに氷が入っていなかった。当然、一杯辺りのアルコール濃度も高く、速攻で酔っぱらえること間違いなしだったような。なお、聞いた話によると、現在でもこの店の○○ハイ系は、濃いらしい。但し、今でも氷が入っていないかどうかは定かではない。
 続いて、2011年の中日(21日)に撮影した水よし本店。店内に入りきれなくなったためか、店頭にもテーブルが並べられていた。当日は、最高気温:25.3℃(平均:21.9℃)と涼しい”うちわ祭”だったためか、”うちわ”を使う必要もなかったようだ。ただ、この気温では、店頭販売していた生ビールの売れ行きも、いま一つだったか?

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■山車・屋台 前輪の操作方法
 御存じの通り、熊谷の山車・屋台は、運転手付きの三輪です。「うちわ祭の特徴」コーナーでも記述しましたが、熊谷っ子にはお馴染みでも一般的には、大変珍しい構造なのです。ある時、ふと思ったことがありました。運転手(実際には、鳶の人)は、一体全体どうやって前輪の操作をしているんだろうか?と言う訳で、山車・屋台の前輪をテーマに写真をバシバシ撮ったところ、操作方法は、二種類に分類でき、町区によっては、両方の操作方法を併用しているらしいということがわかりました。 基本的に操作方法(ハンドル部分?の構造)は、以下の2種類になります。
・把手 ・梶棒
 上記のように、大別すると把手(把手以外に適切な表現が思いつきませんでした)と梶棒の2種類に分類され、両方を併用できる町区もあるため、実際には、3種類に分類できるようです。参加町区の操作方法を分類すると以下のようになります。
 ※:把手、梶棒の両方を使用できる町区でも、実際に梶棒を使用しているかどうかは、定かではありません。
第壱本町区 第貳本町区 筑波区 銀座区 彌生町区 荒川区 鎌倉区 仲町区 伊勢町区 櫻町区 本石区 石原区
把手 梶棒 併用 併用 梶棒 併用 把手 梶棒 併用 併用 把手 把手
 第壱本町区。把手が確認できる。梶棒を取り付けるところはないため、把手のみを使用する。  第貳本町区。把手は見あたらないため、梶棒のみを使用する。
 筑波区。この写真だとはっきりわからないが、山車修復前の写真では、把手が見える。また、梶棒も取り付けられる構造になっているため、併用型。但し、実際に梶棒を使用しているかどうかは、不明。
※:マウスポインタを写真に合わせると、修復前の車輪が
  表示されます。
 銀座区。大きな把手が確認できる。また、梶棒も取り付けられる構造になっているため、併用型。但し、町内の関係者に伺ったところ、実際には、把手のみを使用しているそうだ。
 彌生町区。梶棒のみを使用する。梶棒はつけっぱなしだったので、もしかしたら、簡単に着脱できない構造なのかもしれない。  荒川区。梶棒・把手共に確認できる。併用型のようだ。
※:マウスポインタを写真に合わせると、先代屋台の車輪が
  表示されます。なお、先代屋台は、把手のみでした。
 鎌倉区。把手により操作を行う。  仲町区。梶棒が写っている。写真では、確認できないが、把手は付いていなかったため、梶棒のみを使用する。
※:マウスポインタを写真に合わせると、修復前の車輪が
  表示されます。
 伊勢町区。梶棒・把手共に確認できる。併用型のようだ。
※:マウスポインタを写真に合わせると、修復前の車輪が
  表示されます。
 櫻町区。把手、 梶棒を取り付ける部分の両方が確認できる。併用されているようだ。
 写真からは、確認できないが、本石区。把手により操作を行う。
※:マウスポインタを写真に合わせると、修復前の車輪が
  表示されます。
 石原区。写真には写っていないが、隠れた部分に把手が取り付けられている。
 さて、こうやって見て来ると、一部例外はあるかもしれませんが、山車・屋台の制作年代と前輪の操作方法がある程度リンクしていることがわかるかと思います。つまり、明治・大正期では、梶棒。昭和初期~中期ぐらいは、把手、昭和中期~現在は、把手または併用といった感じです。勝手な想像ですが、運転手付きの三輪になった当時は、運転手なしの三輪だった当時の名残で梶棒を使用していたが、安定性や操作性の向上を目的として両手でしっかり操作できる把手が採用されるようになり、その後、時と場合によっては、梶棒の方が操作しやすい(運転手が立ち上がって操作する場合等)などの理由から両方が併用されるようになったのではということです。


 次に、熊谷近隣の山車・屋台を見ていきたいと思います。
 よりい秋まつりの山車。元々、二輪だったものを大正期に三輪に改造したらしい。前輪の横に付いた人が前輪と直角に取り付けられている梶棒で操作する。もしかしたら、熊谷を参考にして前輪を制作したのかも?  深谷まつり。西嶋町の屋台。運転席状のものがあるため、本来は、熊谷型三輪として制作されたと考えられる。運転できる人がいなかった?ためか、前方に伸びた梶棒で操作するように改造されたようだ。なお、運転席部分には、クーラーボックスが置かれていた。
※:深谷まつりの山車・屋台は、西嶋町以外可動式の四輪を使用しています。ゴムタイヤの屋台もあり。
 行田浮き城まつり。左(新町)は、熊谷型三輪。戦後に熊谷で制作されたらしい。右(下町)は、三輪ながら運転席はない。昭和初期の制作らしい。操作方法は不明。なお、他にも運転席のない三輪屋台を確認済。
 越生まつり。黒岩町の山車。熊谷の鎌倉区から売却されたもの。前方に突き出た梶棒で操作する。何も改造されていないと考えると、明治期は熊谷でも、このように操作していたことになる。  籠原夏祭り。熊谷式の三輪の籠原本町。操作方法は未確認。
写真を見るかぎりでは、運転席がちょっと窮屈な感じ。
 鬼石夏祭り。本町の屋台。熊谷の本石区より売却されたもの。三輪のままであり、木鼻のあたりに熊谷的雰囲気が漂う(左写真)。但し、運転席はなく、前方に大きく突き出した梶棒で操作を行う(右写真)。
※:旧石原区の屋台(三杉町)は、四輪に改造?されていました。

 このように熊谷近隣の山車・屋台を見てみると、熊谷型三輪の成り立ちをある程度推定することができそうです。以下、管理人の勝手な想像レベルの推理です。
 「第貳本町区の山車が東京から購入され、二輪から三輪に改造された。その後、熊谷では、第貳本町区の山車を参考に三輪の山車・屋台が制作された。この頃の前輪は、上記の寄居の山車や越生黒岩町のように操作されていたと考えられる。大正期から昭和初期にかけて、山車・屋台の安定性を増すために、前輪の位置を前方に移動させ、あまったスペースに運転席を取り付け熊谷式の三輪が誕生。なお、操作には、改造前と同じく梶棒を使用。また、この時期には、両方のタイプが混在していた(行田では、今でも混在している)。昭和10年代に入ると、前輪の操作に把手を使用する屋台(石原区、本石区)が制作され、すべての山車・屋台が熊谷式三輪になった。」
 まあ、ざっとこんなところです。
※:天保年間には、すでに第壱本町区に山車があったとの口伝があるようですが、ここでは、第貳本町区が東京より山車を
  購入したのを起源としました。

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■なぜ鎌倉区の山車は売却されたのか?
 鎌倉区の初代の山車は、越生町の黒岩町に明治42年に売却され、現在でも現地で活躍しています。では、なぜ売却されてしまったのか?現地にも祭見物に行き、現物も見てきましたが、そんなことを深く考えたことはなく、私の知る範囲(ホームページ、文献等)では、売却された事実は記述されていても、その理由についての記述はありませんでした。ところが、公式ホームページが2008年にリニューアルされ鎌倉区の紹介に”市中電線化”により売却されたとの記述が見られるようになりました。都内にあった山車が各地に売却された理由と同じということです。ただ、この事実にちょっとした矛盾を感じるのは私だけではないはずです。つまり、第壱本町区や第貳本町区の山車はなぜ、売却されずに残っているのか、筑波区だって先代も山車だったはず。なぜ、鎌倉区の山車だけ”市中電線化”により売却されたのか??ということです。 実は、旧鎌倉区の山車は、越生町に現存しています。 現地で山車その物も見学してきましたので、現存する山車を参考にちょっと考えてみたいと思います。
 まずは、飾り金具です。上の写真は、一層目の跳高欄と舞台下の飾り金具です。跳高欄※の飾り金具(左写真の丸で囲まれた部分)には、”鎌”の文字が、舞台下の飾り金具(右写真の丸で囲まれた部分)には、”宮本”の文字が残ってます。つまり、これらの飾り金具は、鎌倉区の山車で鎌倉区は宮本だと言うことを明確に示すもので、売却されたからには、真っ先に取り替えられてもいいような部分と言えます。このような部分まで売却当時のままだと考えると、大きな理由がない限り改造はされず、ほぼ売却当時の姿を留めていると考えてもいいようです。但し、現地で見た旧鎌倉町の山車は不自然な姿をしていました。
 ※:現在の熊谷では、一層目に跳高欄をもった山車・屋台はないようです。すべて、疑宝珠(ぎぼし)のようです。
 左の写真は、巡行中の山車です。このように中途半端に上げられた状態で運行されていました。駅前での競演の時(右の写真)では、人形は上げられたものの鉾はそのままでした。元々、熊谷にあった時から昇降装置が無く祭の度に組み上げる構造のため、電線架設により越生に売却、越生でも電線架設により鉾が切り詰められたのではないかと勝手に推理をしていました。ところが、リンクさせていただいているサイト入間郡とその近郊の祭り囃子の管理人である入近さんの越生まつりに関する取材や聞き取り調査によると、上鉾は昇降可能であるが、おだまき等の昇降装置がなく上げ下げに手間がかかるため、歩道橋や電線を潜り抜けられる現在の位置まで鉾を上げた状態で運行されているそうです。ちなみに、上鉾の幕も現在の鉾が上がった状態の部分までしか幕がないようです。どうやら、推理は的外れでした。
 他に売却の理由はないだろうかと、いくつか考えて見ました。
 ①鉾を下げた状態でも運行中ある程度電線を扱わなければならないが、電線が張られたばかりの当時では扱い方が
  わからなかった?
 ②当時からおだまきがなかったため、鉾の上げ下げが面倒になった?
 ③新しい山車・屋台が建造されることになった?
何となく、こんな感じなのかと・・・。まあ、実際には大した理由はないのかもしれません。

※1:越生町の黒岩町に現存するこの山車は、明治27年に熊谷で制作、または、買い入れられたものだそうです。
※2:実は、都内から山車が流出した理由も電線の架設に求めるのは不自然なのかもしれません(鉾の上下できるタイプの場合)。
  そんなこと言ってたら、どこにも山車なくなっちゃいますから・・・。まあ、他の地区(青梅や高崎)も不思議なところがありますが。
※3:記事の中でも紹介しましたが、リンクさせていただいている入間郡とその近郊の祭り囃子における越生まつり(黒岩町)には、
  越生黒岩町(旧熊谷鎌倉町)の山車に関する詳細な調査結果が紹介されています。

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■山車人形のレプリカ
 2007年に川越まつりを見物に行った時です。時の鐘周辺の祭メイン会場とも言えるあたりは、毎年大混雑となりますが、札の辻を越えて喜多町に入ると、人もまばらになります。現在でも、この状況は変わっていないと思います。さて、夕刻に喜多町から志多町あたりを徘徊していると喜多町・志多町の会所に飾られていた俵藤太・弁慶の人形を発見。あれ、喜多町はともかく、志多町は山車が出ているはず。一端、弁慶の人形を下ろして会所に飾り、夜の部に再度、山車に載せるのかと思っていました。ところが、弁慶の人形を運ぶ気配もなく、宵山に向け既に祭メイン通りに飾り置かれていた山車には人形が載せられていました。あれ??・・・。町内の方に伺うと、山車に載せられているのはレプリカで会所に飾られていたのが、本物(本物と言う表現が相応しいかは?)とのことでした。つまり、作成されてから長年を経た、オリジナルの人形は会所に飾り、レプリカを山車に載せているということです。もちろん、名人作(鼠屋五兵衛)で文化財ともいえる人形を痛めないためでしょう。オリジナル・レプリカの人形写真を以下に掲載します。
 会所に飾られていたオリジナルの人形(2009年撮影)。山車を出さない年でも会所に飾られているので、毎年間近で見物が可能。以下の志多町の会所をクリックすると地図が表示されます。見物の時の参考として下さい。
志多町の会所
 山車に載せられたレプリカの人形(2012年撮影)。何となく顔の造作が大きく、オリジナルと大分違うのがおわかりいただけると思う。もっとも、山車に載せられ、地上から見ている分には全く違和感はない。
 続いて石岡のおまつりです。金丸町の弁財天ですが、川越の志多町と同じく、江戸天下祭に出場しました。左がオリジナル(2011年撮影)、右がレプリカ(2012年撮影)です。川越とは扱いが違い、天候によりどちらの人形を山車に載せるかを決めているようです。つまり、天気がよければ”オリジナル”、怪しければ”レプリカ”となっている?ようです。もっとも、本降りならどちらも載せられないでしょうが・・・。
 言い忘れていましたが、オリジナルの人形は古川長延作とのことです。金丸町の会所も以下に示しておきます。
金丸町の会所
 さて、この”こぼればなし”コーナーは、うちわ祭の小ネタとして作成したものです(最近は、うちわ祭以外のネタも載せるようになりましたが・・・)。何で川越・石岡の祭をネタとし延々とこんなことを書いたかと言うと・・・。
 熊谷にも、くそ暑い熊谷の夏祭に山車に載せていていいんだろうか??という人形があるためです。
下段左側の第貳本町区 手力男之命の人形です。
 この人形は、仲秀英作と伝えられており、作成年代を額面通りに捉えると、現存している関東地方の人形としては、最古の部類と考えられる作品です。川越や石岡では、名品の山車人形に上記のような保存措置が取られており、成田にも頭だけレプリカがあるとの話も聞いた事があります。熊谷出身の管理人は、手力男之命の人形は川越弁慶・石岡弁財天にひけをとらない素晴らしい人形だと考えています。このまま、普通に使っていてもいいのでしょうか?熊谷では、他の祭と比べても、人形の上げ下げが頻繁に行われており(多分?)、他の祭より人形が傷みやすいはずです。手力男之命も、そろそろレプリカが必要な必要な時期になっているような気がします。もっとも、資金的な問題もあると思いますので、熊谷市の助成が是非とも欲しいところです。

※:管理人的には、「熊谷山車・屋台会館」を建造して普段は会館内に飾り、祭期間中は、会所に飾るのがいいのではないかと考えています。 もちろん、山車に載るのはレプリカで。もっとも、状況によっては、本物が山車に載るのも有りだと思いますが・・・。
 2017年、地元熊谷の長野屋さんでレプリカ(左側の写真)が制作されました。

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■何を競い合ったのか?
 祭には、意地の張り合い・競い合い的な側面があるようです。たとえば、「隣の町内が山車を造ったから、うちの町内も造ろう。どうせ造るなら、隣の町内より大きくしよう。」なんてのが、ありがちなような気がします。この意地の張り合い・競い合いの結果を顕著に感じることのできる祭もあちこちで見ることができます。まあ、お国柄がでるのか競い合った結果も祭によってさまざまです。もちろん、熊谷でも現在の祭を見れば、何を競ったのか一目瞭然です。
 まずは、他の(熊谷以外の)祭の意地の張り合い・競い合いの結果です。
※:管理人は、意地の張り合い・競い合いの結果、こうなったと考えていますが、確証がある訳ではありません。もしかしたら、全然
 別の理由があるのかもしれません。
 左の写真は、佐原の大祭で曳き廻される山車(佐原では、幣台:やだいと呼ぶ。)です。見ればわかる通り、非常に巨大な人形が山車に載せられています。山車と同じぐらいの高さがあると思われるので、合わせると7~8メートル?(正確な高さはわかりません)ぐらいの高さがあるようです。
 始めから、こんな巨大な人形を載せていたとも思えないので、競い合いの結果なのでしょう。なお、すべての山車に巨大人形が載せられている訳ではなく、物語仕立ての複数人形・巨大な鯉,鷹などが飾られている山車もあるので、すべての町内が人形の大きさにこだわった訳ではないのかもしれません。

※:このような、巨大人形は、近場の鹿島・潮来などでも見ること
 ができます。
 続いて、鹿沼ぶっつけ秋祭りです。鹿沼の屋台は、”彫刻屋台”と呼ばれているように、他では考えられないぐらい彫刻だらけです。これも競い合いの結果、どんどん彫刻が増えて行ったのだと思います。なお、屋台には、極彩色に塗られた物と、白木造りの物があり、管理人の見た目では、白木造りの方が全体的に彫刻が大きく、派手なようでした。写真を見ればわかるように、行き着くところまで行ってしまっているような気もしますが、町内によっては、まだ彫刻を追加していくのかもしれません。

※:鹿沼観光だより鹿沼の彫刻屋台のページによると、屋台を
 以下の3種類に分類しています。
 ・彩色彫刻漆塗屋台
 ・白木彫刻漆塗屋台
 ・白木彫刻白木造屋台
 詳細は、上記ページを参照願います。
 このように、祭によって競い方(こだわり方?)にも特徴があり、中々興味深い物があります。では、熊谷うちわ祭では、どうなのでしょうか?前述の通り、一目瞭然なので、あえて説明する程のことでもないのですが・・・。
 さて、熊谷うちわ祭です。山車の大きさ・人形の大きさ・彫刻の多さなどが、他の祭での競い合った(こだわった?)結果として紹介しましたが、熊谷では、音の大きさが意地の張り合い・競い合いの結果と言ってもいいのではないでしょうか?もちろん、象徴すべきは、「うちわ祭の特徴」コーナーでも紹介した大きな鉦です。熊谷囃子の源流でもある世良田でも、これほど大きな鉦は使用していないようですし、他の世良田囃子系の祭では、熊谷近隣の深谷や行田を除き、大体7寸~8寸程度の鉦が使用されているようです(管理人の見た目で測った訳ではないので、実際の大きさはわかりませんが、熊谷より小さいのは確かです)。なお、知っている範囲では、本庄の一部でも大きな鉦が使用されています。管理人の勝手な思いとしては、お囃子自体は、世良田から深谷や岡部を経由して伝わったとしても、鉦は熊谷で大きくなり、近隣の祭に逆輸入されて行ったと考えています。なにしろ、昔は一晩中叩き合いをしていたそうなので・・・。
※:熊谷地元のお囃子会が結成される前は、深谷や岡部の各地区から、囃子方が来てお囃子をしていたそうです。ある意味、
 囃子方の意地の張り合いだったのかもしれません。 何しろ、さまざまな地区から雇われてお囃子をしていたのですから。
 世良田でも、管理人が見た範囲では、熊谷より 小さめな鉦が使用されていました。
 世良田祇園祭のレポートは「お祭見聞録」に載せてあります。

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■いかやきと煮いか
 全然、うちわ祭と関係ないですが・・・(地域的な関係はあるかもしれません)。お祭の露店の定番といえば、「焼きそば」、「お好み焼き(広島風)」、「たこ焼き」、「とうもろこし焼き」etc・・・でしょうか?まあ、甘いところでは、綿あめやかき氷などもありますね。最近では、鳥から揚げ、ケバブなども、よく見かけます。ところで、忘れてはいけないところで「いかやき」があると思います。左下の写真の垂れ幕は”いかやき”なので、そう記述しましたが、何となく思い浮かんだのは焼きイカだったので、タイトル的には、両方あるのかもしれません。
 で、左の写真の”イカ”ですが、たしか、川越まつりの時に、札の辻を越えたあたりで撮影してものです(露店の看板と、いかやきの写真が入れ替わります)。 もちろん、このネタのためにあえて撮影した物です。自分の知る範囲(関東)では、お馴染みの定番ですが、露店の世界も最近は、大分さまがわりしてきているようで、いか以外では、「たこ焼き」の”蛸”もどんどん大きくなり、「焼きそば」もどんどん大盛りになっているようです。飯蛸がまるまる一匹入っている「たこ焼き」も見かけます。お祭の露店も時代と共に変わっていっているのでしょうね。閑話休題。

 さて、本題です。下の写真(こちらも、露店の看板と、いかの写真が入れ替わります)を見て下さい。
 そう、これは、「煮いか」です。定かではありませんが、栃木県・茨城県の祭では、この「煮いか」が定番?になっているようなのです。と言いながらこの方面には、中々行く機会がないため(徐々にこの方面の祭見物も増やす予定ですが・・・)、例外はあるかもしれません。但し、他の関東内(まあ、埼玉中心だが)では、見たことがありませんので、この地方独特だと思われます。
 地元(茨城方面)の方に聞いてみたのですが、中々話がかみ合わず、詳細はわかりません。どうやら、当たり前過ぎて何の事だか?だったようです。私は食べたことがないので、美味いものなのかどうか?です。右の写真だと普通に煮たいかですが、管理人が今まで見た範囲では、食紅?で色付けされた”赤いいか”を結構見かけました。
※:煮いかの写真は、「とちぎ秋まつり」で撮影したものです。他に、鹿沼(栃木県)・石岡(茨城県)でも煮いかを確認しています。
 なお、焼くより、煮たいかの方が、いかの香りが強くなるようです。ずっと使っている?煮汁のせいかもしれませんが・・・。
なお、石岡・鹿沼では、少数派?ながらいかやきもありました。

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■うちわ祭は本当に暑いのか?
 熊谷市は、2007年に、観測史上日本最高気温となる40.9℃を記録し、八木橋前の大温度計の目盛りが45℃まで継ぎ足され、夏場の猛暑日になれば、必ずといっていいぐらいニュース番組などで市街地の様子が中継されるなど、もはや、熊谷は暑い所というのが近年、定着してしまっているようです。また、うちわ祭も”日本一暑い街の日本一熱い祭”などと言われるようになっています。最も、公式にそのように言われているかどうか定かではありませんが・・・。
 さて、日本一かどうかはさておき、うちわ祭が”熱い”ことは間違いないところですが・・・。はたして、うちわ祭は本当に”暑い”のか?2011年がうちわ祭らしくなく、涼しい祭だったこともあり、実際の所どうなのかが気になりました。幸いにも熊谷には気象台があり、過去の観測データが1967年よりホームページに掲載されていましたので、以下にうちわ祭期間中の気温(平均・最高・最低)、天候等を簡単にまとめてみました。
※:一時、観測史上最高気温は、他の市に更新されていましたが、何と、2018年7月23日に熊谷市は、41.1℃を記録し、観測史上の最高気温を奪い返してしまいました。今後も、八木橋前の温度計やら熊谷駅前のミストが夏の風物詩になることは間違いなさそうです。
年番町 7月20日 7月21日 7月22日
気温(℃) 天候(昼)
6:00~18:00
気温(℃) 天候(昼)
6:00~18:00
気温(℃) 天候(昼)
6:00~18:00
平均 最高 最低 平均 最高 最低 平均 最高 最低
1967年 第壱本町区 27.9 33.5 24.6 28.0 33.7 24.1 27.6 33.4 23.8
1968年 第貮本町区 27.5 34.3 22.9 28.1 33.8 23.6 29.4 36.6 24.1
1969年 筑波区 26.1 32.6 20.9 26.3 32.0 23.0 27.4 33.6 22.0
1970年 銀座区 27.7 33.5 23.5 28.1 34.2 22.2 28.7 35.1 24.3
1971年 彌生町区 24.0 30.0 17.9 24.6 29.5 20.9 24.4 27.5 21.9 曇時々雨
1972年 荒川区 26.8 32.2 23.6 25.8 31.5 22.5 25.5 30.9 22.0 曇時々雨
1973年 鎌倉区 25.1 31.1 22.5 曇時々雨 26.8 29.9 23.8 曇時々雨 23.3 25.6 19.6
1974年 仲町区 23.3 27.4 20.8 曇時々雨 21.9 27.2 18.3 曇時々雨 20.0 24.4 17.8 曇時々雨
1975年 第壱本町区 25.5 30.7 20.0 24.7 29.7 21.9 曇時々雨 25.8 30.0 21.5
1976年 第貮本町区 19.2 21.6 17.0 23.2 28.1 17.9 25.9 32.1 22.2
1977年 筑波区 23.3 26.9 20.7 24.0 29.2 19.6 26.1 33.2 19.4
1978年 銀座区 27.3 32.4 23.6 26.9 31.7 23.2 28.7 34.4 25.2
1979年 彌生町区 20.9 23.8 17.5 曇時々雨 24.1 28.2 19.9 25.9 30.3 22.9
1980年 荒川区 26.5 32.2 22.1 27.3 33.5 22.4 28.0 34.3 23.8
1981年 鎌倉区 27.8 34.9 24.3 大雨 晴れ間あり 26.7 32.8 24.6 25.9 33.1 21.4 曇一時雨
1982年 仲町区 24.1 28.5 20.8 21.8 23.6 20.6 曇時々雨 23.1 29.1 19.5
1983年 第壱本町区 22.5 23.9 21.8 24.6 28.0 21.6 曇時々雨 23.6 25.5 21.9
1984年 第貮本町区 25.7 30.4 23.3 23.9 27.9 22.5 25.9 31.3 22.4
1985年 筑波区 25.9 32.4 21.9 曇一時雨 25.1 30.2 22.1 曇時々雨 25.4 30.9 22.0
1986年 銀座区 19.9 21.2 18.2 18.9 21.0 17.5 晴時々雨 19.4 21.1 18.0
1987年 彌生町区 22.9 26.2 20.3 曇一時雨 24.3 28.0 21.6 27.6 32.6 22.5
1988年 荒川区 20.5 22.7 18.8 22.1 25.3 19.7 22.4 25.5 19.9
1989年 鎌倉区 25.4 31.1 21.4 曇一時晴 26.6 32.5 22.9 曇時々晴 26.9 33.0 23.3
1990年 仲町区 27.3 32.6 23.0 晴時々曇 26.2 31.6 22.1 曇後晴 27.4 35.9 22.3 晴時々曇
1991年 第壱本町区 22.8 25.4 20.7 雨後曇 28.2 36.0 21.5 晴一時曇 25.5 28.9 22.9 雨一時曇
1992年 第貮本町区 27.7 35.4 21.6 快晴 27.6 33.5 21.8 薄曇 27.8 32.0 24.2
1993年 筑波区 18.4 20.3 17.2 18.4 18.9 17.4 曇時々雨 21.6 26.2 18.0 曇時々晴
1994年 銀座区 27.4 32.3 23.5 28.3 34.0 23.7 曇時々晴 28.4 33.7 24.0
1995年 彌生町区 23.4 27.4 21.2 曇時々雨 24.2 26.2 22.3 雨時々曇 25.3 29.6 22.9 曇時々雨後晴
1996年 荒川区 25.7 29.8 23.4 25.7 31.0 23.2 雨後曇一時晴 24.0 27.4 21.7 曇一時雨
1997年 鎌倉区 25.7 32.0 20.5 26.3 32.8 20.7 晴後一時曇 26.1 32.4 20.7 快晴
1998年 仲町区 24.3 28.2 20.8 曇一時雨 23.9 28.9 19.1 曇一時晴 22.3 25.4 20.7 曇一時雨
1999年 第壱本町区 23.5 25.7 21.4 霧雨後曇 26.0 33.1 22.8 曇一時晴後雨※ 26.4 33.1 23.6 曇時々晴一時雨※
2000年 第貮本町区 28.1 34.6 23.1 晴後一時曇 28.1 31.8 25.1 薄曇 30.2 36.9 24.0
2001年 筑波区 28.0 33.4 22.8 晴後一時曇 29.7 36.2 25.4 晴時々曇 30.5 36.8 26.1 晴時々曇
2002年 銀座区 30.2 36.9 24.2 29.9 35.8 25.3 薄曇後一時晴 29.8 34.8 26.0 薄曇時々晴
2003年 彌生町区 24.1 28.5 19.9 曇一時晴 24.4 28.2 22.2 雨後曇 21.4 24.0 18.5 曇時々雨
2004年 荒川区 32.7 39.2 25.7 晴一時薄曇 31.9 38.2 27.2 晴後曇 28.8 34.5 24.5 薄曇一時晴
2005年 鎌倉区 25.0 30.8 21.0 27.1 33.3 21.4 薄曇後晴 25.0 30.4 20.4 薄曇
2006年 仲町区 21.8 24.0 19.9 曇一時雨 20.6 21.7 19.7 雨時々曇 22.6 25.2 20.6 曇一時雨
2007年 第壱本町区 22.3 24.5 20.2 23.6 26.2 21.2 25.9 31.0 22.8 曇時々晴
2008年 第貮本町区 28.0 34.5 23.8 晴時々曇 26.2 30.1 23.4 28.8 34.8 25.0 曇後晴
2009年 筑波区 26.7 31.7 22.3 曇一時晴 22.7 24.6 20.9 曇後一時雨 23.8 26.6 20.8 曇一時雨
2010年 銀座区 31.1 36.8 25.1 薄曇一時晴 32.0 37.9 27.2 晴一時薄曇 31.3 37.6 26.1
2011年 彌生町区 25.3 30.0 21.3 雨時々曇 21.9 25.3 19.2 曇時々晴 21.6 26.1 18.1 曇時々晴
2012年 荒川区 19.6 21.1 17.6 曇時々雨 19.0 21.9 16.8 雨後曇 20.5 22.7 18.5
2013年 鎌倉区 24.2 29.4 20.9 曇後一時晴 24.4 30.2 20.0 曇後一時晴 25.9 33.4 20.2 晴後薄曇
2014年 仲町区 24.1 30.2 20.4 曇後一時晴、雷を伴う 25.1 30.5 21.6 晴時々曇 27.4 33.5 22.1 薄曇時々晴
2015年 第壱本町区 29.3 34.8 25.6 晴後一時曇 30.0 36.4 24.5 30.4 37.1 24.7 快晴
2016年 第貮本町区 26.4 32.3 22.7 晴時々曇 22.0 23.6 20.7 雨後時々曇 21.2 23.4 19.9 雨後曇
2017年 筑波区 28.5 34.6 23.9 晴一時曇 29.9 36.2 25.9 29.8 36.1 25.6 晴時々薄曇
2018年 銀座区 31.0 37.3 27.6 晴時々曇 31,6 38.0 26.7 薄曇一時晴 32.7 37.9 27.2 薄曇一時晴
2019年 彌生町区 27.1 30.3
24.2 曇後時々雨 24.6 27.0 21.6 曇時々雨 22.6 24.1 21.3 雨時々曇
気温 35度以上 0 5 0 0 8 0 0 9 0
30~34.9度 4 28 0 4 21 0 5 25 0
25~29.9度 28 11 3 25 17 6 31 13 6
25度未満 21 9 49 24 7 46 17 6 46
◆雷雨があった場合、天候欄に"※"を入れています。
◆最高気温欄は、気温により以下のように塗り分けてあります。
35度以上
30~34.9度
25~29.9度
25度未満
 上記の一覧から感想を言えば・・・。”あれ、それ程でもないかな。。。・・・?”といったところです。まあ、概ね暑いのでしょうが、日程的には、梅雨が明けるかどうかといったような時期です。雨が降れば涼しく、曇れば、大した暑さにもならず・・・。早々と梅雨が明けていて好天に恵まれれば暑い・・・。そんな感じでしょうか?2000年以降は、どうしても温暖化の影響があり、真っ赤っかの猛暑日が多くなっているような気がしますが、概ね、普通の夏祭的な気温なのではないでしょうか?特に、熊谷だからといって檄暑ではないような気がします。
うちわ祭も各所の夏祭と同じように普通に暑い夏祭のようです。なお、梅雨明けギリギリの日程のためか、雷雨に見舞われることは少ないようですが、これから日付固定(7月20日~22日)でなくなる可能性もあり、雷雨に見舞われることが多くなるのかもしれません。さて、今後はどうなるのでしょうか?個人的には、檄暑ではなく、程々の気温であってほしいものですが・・・。

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■人形山車のコンセプト
 人形山車(ここでは、江戸型を含めた人形の上がる山車全般のことを指します。)の見どころといえば、人形は、もちろんですが、山車に施された彫刻、各種幕類、金飾り等の各種飾りつけ等と言えるでしょう。特に、あるコンセプトの元、これらの山車の飾りつけが統一されていたりすると、管理人などは思わずニヤリとしてしまいます。人形山車の場合、そのコンセプトは、人形(人物や能・歌舞伎の演目等、架空の人物もありうる)をテーマとしたものが一番わかりやすいのだと思います。
 まずは、管理人が見聞してきた山車を幾つか紹介したいと思います。まあ、わかりやすい「お伽話」ネタが主ですが・・・。
※:今まで、見聞した来た中で、テーマが統一された人形山車は他にも多数あると思いますが、管理人の知識不足のため、ここで紹介するのは、ほんの一部です。

 さて、まずは、誰でも御存じの桃太郎です。
 本庄(照若町)の桃太郎。注目すべきは、人形そのものより、山車前面の鬼板・懸魚付近にありそうです。鬼板には、「雉子」の彫刻が彫られており、なんと、懸魚には、「犬」、「猿」の彫刻。俗に、「犬猿の仲」といいますが、本庄では、特に仲が悪い訳ではないようです。また、唐破風屋根の下には、「赤鬼」、「青鬼(実際には、緑)」がいたりします。
 見返り幕は、「浪に岩」が散見される構図ですが、何となく「鬼ケ島」に見えるような気がします。
※:人形→見返り幕→鬼板・懸魚(雉子・犬/猿)・鬼の順に写真が切り替わります。

 こちらは、石岡(大小路町)の桃太郎。胴羽目(舞台下の彫刻)には、「桃太郎」一代記的な彫刻が施されている。まあ、桃を割ったり、犬や猿を手なずける所(多分、きび団子を与えている?)、鬼退治、宝を持ち帰る所など。
※:人形→胴羽目各部分の順に写真が切り替わります。
 続いては、「川越まつり」です。
 こちらも誰でも御存じの浦嶋太郎です。浦嶋太郎自体は、神話の世界にも登場するようなので、月代姿でいいのかどうかはさておいて・・・。
川越松江町二丁目の浦嶋太郎の山車は、腰板(せいご台)部分の四方に、海系の彫刻が施されています。但し、近年に修復された山車でもあり、彫刻自体が新しく見えるため、修復時に追加(更改)された物かもしれません。また、見返り幕は、浪、岩、珊瑚が施されており、浦嶋太郎的な雰囲気がたっぷりです。
※:人形→見返り幕→前腰板(蛸・海老類)→後腰板(魚類。飛魚か?)の順に写真が切り替わります。

 続いては、お伽話でなく神話の世界です。川越大手町の山車人形は、天鈿女命。実は、熊谷の某町内と共通点があり載せることにしました。天鈿女命は、芸能の神といわれており、「天の岩戸開き」で活躍しています。「天の岩戸開き」の時には、ストリップ的な踊りをしていたような話があり、写真のような雰囲気の衣装でいいのかどうかはわかりませんが、上鉾の前面には、鶏が・・・。やはり、「天の岩戸開き」がコンセプトだということがわかります。
ちなみに、大手町の山車は、川越にありながら、江戸型系川越型ではなく、シンプルですが典型的な江戸型であり、江戸の雰囲気を濃厚に残しています。
※:人形→上鉾の幕の順に写真が切り替わります。
 では、熊谷はどうなのでしょうか?もちろん熊谷の人形山車の中にも、コンセプトが統一されたものがあり、第貳本町区と銀座区が該当すると思います。
 第貳本町区の人形は、手力男之命です。手力男之命は、力の神として有名ですが、前述の天鈿女命と共に、「天の岩戸開き」で大活躍している神でもあるわけです。管理人の知っている範囲では、神武天皇、素盞鳴尊、日本武尊などは、数も多く、他の祭でも結構見かけますが、手力男之命は、近場で見たことがなく山車人形としては、珍しい物です。さて、手力男之命の人形を見てみると、左手に岩を抱えており、人形そのものが「天の岩戸開き」の場面をかたどっています。見返り幕の「火炎太鼓と長鳴鳥」は、「天の岩戸開き」の一場面であり、山車自体が「天の岩戸開き」で統一されていることがわかります。また、江戸から買いつけた当時から載っていたかどうか定かではありませんが、現在では日中、屋根の上に鶏が載っています。
※:人形→見返り幕→屋根の上の鶏の順に写真が切り替わります。
 銀座区です。屋台から山車に曳き物を更改した時に、おそらく、熊谷で一番有名な熊谷次郎直実を載せました。特に彫刻類では、”直実”を現した物はないと思いますが、屋根下の提燈には、「熊谷直実公」と記述されており、見返り幕の脇には、熊谷草などが飾られています。また、上鉾の幕には、「直実公一代記」と称して、武将らしい飾りつけが施されています。
※:人形→屋根下の提燈→見返り幕→上鉾の幕の順に写真が切り替わります。
 さて、今年(2012年)は、荒川区が現屋台の老朽化により、北陸の太鼓店で新山車を制作中のようです。おそらく、祭前にお披露目が行われると思いますが、是非とも「ニヤリ」としたいものです。

 さてさて、どんな山車ができるのかと待ちわびていましたが、2012年6月17日に新規制作された荒川区の山車竣功報告祭・お披露目巡行が行われました。公開された山車は、「大國主命」を主題とした、何とも素晴らしいものでした。
 新造なった荒川区の山車です。写真は、すべて、山車竣功報告祭・お披露目巡行において撮影したものです。
 どんな感じで統一性を持った山車なのかが、このコーナーのテーマですが、浪に白兎(因幡の白兎)をあしらった上鉾の四方幕。大國主命を彫り込んだ脇障子。”大國主”の額等、見事に大國主命で統一されていました。
※:人形→四方幕→脇障子(右)→脇障子(左)→額の順に写真が切り替わります。

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■生人形師の作品
 山車人形制作者のビックネームといえば、法橋(※1)の位階を持つ、「原舟月」、「仲秀英」。仲秀英の弟子と言われる「古川長延」。「鼠屋五兵衛」などでしょうか。但し、一般的には、まったく知られておらず、一部のマニアの間(管理人含む)で高名なだけなような気もします。
 本来、お江戸の山車人形は、元々高い山車の上にさらにせり上がった鉾のまた上に載せられるものであり、地上にいる人間にとっては、かなりの高さに飾られる人形を見上げることになります。また、人形自体は、地上を見下ろすように、やや前傾で飾られるのが定番です。
 「左甚五郎」の逸話だったような??気がしますが、近場で見た時には、何とも荒い彫刻だったのが屋根あたりに飾られたら、生けるが如きに見えたとのこと。これは、山車人形にもいえることであり、高いところから前傾で飾られることを前提に造られていたような側面もあるようです。現在では、さまざまな事情により、山車の上に人形が飾られなくなっているケースも多くなっており、会所に飾られたり、山車会館的施設に飾られたりと、わりと近場で見る機会が多くなっているようです。
 さて、人形の中には、「生人形」(※2)というジャンルもあり、「松本喜三郎」、「安本亀八」(※3)が生人形の作者として有名です。下記の通り、リアルさを前面に出した人形なので、山車人形と違い、本来は、近いところで見る物だと思いますが、生人形系の作者が作成した山車人形も存在します。ここでは、生人形師の制作した(制作したと思われる?)山車人形を紹介したいと思います。
※1:法印、法眼などの僧位。仏師や絵師などの芸術家にも与えられた。
※2:コトバンクには、「あたかも生きた人間のように見える等身大の人形。または、一つのテーマのもとに何体もの人形を作って
   展示する見世物を指す。」と記述されています。なお、「生き人形」でネット検索すると怪談話が出てきます。
※3:松本喜三郎、安本亀八の名前をクリックすると、ウィキペディアの関連ページが表示されます。
   なお、2012年現在、「原舟月」、「仲秀英」等の人形師のページは、ウィキペディアには存在しません。

 まずは、松本喜三郎作。桐生市の「素盞鳴尊」です。
写真は、2007年の「江戸天下祭」に出場した時のものです。勾欄に施された龍(八岐大蛇)を踏みつけ・剣を降り降ろす所でしょうか。当時は、デジカメの性能(画素数)もイマイチであり、頭部分の拡大写真も手持ちになかったため、この迫力があまり伝わらないかもしれません。
松本喜三郎の山車人形は、管理人の知る限りは、この一体しかありません。
現地(桐生市)で詳細に見てみたいと思いますが、祭礼時に山車に載せられているのは、レプリカだとの話も聞いたことがあります。
本物は、「アートホール鉾座」に収納されている?のかもしれません。
 続いては、安本亀八作の人形です。どうやら、安本亀八も襲名制?だったらしく、下に掲示した写真は、両方とも三代目の作のようです。左は、久喜志ん一の日本武尊で、おそらく女装して熊襲健の宴に忍び込む場面だと思われます。腕はベールで隠されてしまっているのでどのような感じか??ですが(生人形の場合、腕とかでも、血管がうきでているように造られるのが定番のようです?)、顔だちは、日本武尊が若い時なのか、他の生人形のように深い皺もなく、わりとすっきりとした印象です。なお、この人形は、山車の上に載っていることもありますが、提燈山車(竹山車)となっている時には、会所に飾られています。
 右は、佐原の大祭(夏祭)で見られる経津主命です。佐原なので人形が大きくわかりやすいようです。顔の部分を拡大すると、髭や髪形を別にすれば、どこにでもいるオッサンのようなリアルな表情です。手持ちの写真に都合のいいものがなく掲載しませんでしたが、佐原には、他に何体か安本亀八作の山車人形があったと思います。
※:経津主命は、一般的に、あまり有名でないような気がしますが、大国主命に国譲りを迫った神の一人であり、また、香取神宮の主祭神であることから、佐原近辺の水郷地帯に散見されるようです。
 最後は、久喜市(旧鷲宮町)の鷲宮八坂祭に飾られていた鍾馗と弁慶の人形です。以前は、山車の上に載っていたと思われますが、現在では、両方とも会所に飾られており、作者不明のようです。
 左は、鍾馗の人形。顔に刻まれた深い皺。血管の浮きでる腕など、生人形系の作風です。ただ、保存状態があまりよくなく、腕の壊れた部分にガムテープが巻かれていました。写真は、全体像→顔部分のUP→腕(ガムテープ)→腕(久喜市合併記念式典前夜祭で撮影した赤いサポーター的なものが被せられたもの)の順に切り替わります。
 右の弁慶も同じく、顔の皺・腕の血管から生人形系の人形師の作だと思われます。同じ作者かもしれませんね?こちらは、保存状態もよく(近年、修復された?)何となく新しく感じられました。
※:2012年。鍾馗の人形は、何と56年ぶりに山車に載せられたそうです。

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